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 <cafe James>公式ブログ☆油井純一のリアルライフ!モダンライフ!

<cafe James>公式ブログ☆油井純一のリアルライフ!モダンライフ!

「秘密という名の嘘」下

君は電話を切ったあとしばらくずっとその場所でその美しい爪先を見ていた。

彼は私をどうやって見つけようとするのだろう。
陽気に切った電話の余韻は、甘い時間を約束しなかった。
そしていつか彼と出会った時、私はその真実で彼を驚かせ困惑させるのか...それともそれを「宿命」として彼、そして私は明日に向かって歩いていくことが出来るのだろうか?
君は信じていた。永遠の物語を...
でも永遠に終わらない愛なんて本当はないを知っていた。永遠に続くのは本当は「恋」なんだと。でもその真実に近付くのを人は恐れる。身も心もボロボロにしてしまうから。
でも君は探し続けてきた。身を焦がし、焼き付くしてしまうほどの「恋」を。

思い出していた。思い返していた。
君と歩いた日々を。君と歩いた道を。

僕が家の鍵を失くした時、ひとみは日が暮れるまでずっと僕と一緒に駅から家までの15分の道を何度も何度も行き返し探してくれた。
僕が仕事で大きな失敗をした時、ひとみは朝までずっと僕の頭を抱えてじっとしていてくれた。

君と、君と、君と....

僕は歴史を描き続け、僕は未来だけを見てきた。

でも...

僕は君に何をしてあげたのか?僕の夢は君の夢と触れ合ってきたんだろうか?

でも、それでも、

君は僕が君を探すのを待っていてくれる。
君に会ったら僕はこう言おう。
「夢から覚めたら、君とリアルな夢を歩いていくよ」
雨の日も、偏頭痛の朝も、髪型が決まらない日も、泥のように眠りたくなる夜にも、僕は君を探して街を、空の下を、低い天井の古いビルの中を歩き続けた。メリケンパークで、HAT神戸で、ラフレアで、御影の神戸屋で、魚崎の駅で....僕は君に似た誰かに心を震わせた。
イズミホールのペイヴメントで、空中庭園で、カッシーナで、地下鉄なんば駅で....僕は君と過ごした時間を取り戻すことだけを考えていた。

そしてそんな毎日が...続き....17日目の朝が来た。その日はひとみからのEメールから始まった。

YOU GOTTA M@IL!

「たんじょうびおめでとう。   
 そろそろギブアップかしら...もう私達会えない運命なんおかもね...ちなみに今から私は公園にでもいくつもり、あなたともいったことあったかな?
 もし、今日会えたら...お誕生日を祝ってあげないとね...
じゃあ....あとで?」

今日が誕生日だなんて...忘れていたわけじゃないけれど、ひとみからのメールで自分が29歳になった現実を知る。

公園?

ひとみといった公園?中ノ島公園?服部緑地?江坂公園?靫公園?大阪城公園か...。

丸山公園か...そうだ!丸山公園だ...!

ルメールのコートを羽織り、駐車場に降りる。慌てて出そうとした車のドアに手を挟みそうになる...

今度こそ「ひとみまで」3マイル... 。

山手幹線を抜け、山麓線に向かう。篠原のローソンを過ぎ、暫く走ったところで右に折れた。急激な坂。あの頃二人で登った坂道を一人で「あの頃」に向かって走る。

登り切った先にあるその公園という名の広場にはゆっくりと風が流れていた。
人陰は?人陰は?   人陰は?

子連れの集団に胸が高まる。
「ひとみ」がママに?
突然早まる胸の鼓動。
しかし、すぐにそこにいた顔を見て、僕の平常心が戻ってきた。もちろん期待感と言うコンセントレーションを伴いつつ。

遠く大阪湾まで見おろせる先端の柵のところまで来ても彼女の姿はなかった。

ふと背後に視線を感じ、振り返ると、写生と思しき老婦人の視線にからめ取られた。

「あのぉ、すいません、お尋ねしたいんですが...」
「なんですか?」
「失礼ですけど、いつ頃からここで絵を描いてらっしゃるんでうか?」
「いつ?」
「あのぉ、ここに、この柵のところに女性が一人で来てなかたでしょうか?」
「いつですか?」
「そうですね、今日の午前中なんですが...」
「......背が高い人かしら?」
「....!ええ、来てました?」
「あなたが言ってる方かどうかしりませんけど、私、8時過ぎからここにいますけど、女性で一人で来られた方でしょ?」
「....その人もう帰っちゃったんでしょうか?」
「ええ、待ち合わせてたんですか?」
「....いや、...そうですねぇ。あ、あのここには結構朝の内にもたくさん来るんでしょうか?」
「そうねぇ、大体近所の方で親子連れか...まあここは夜景で有名みたいですから、あまり多くはないですね、特に午前中は」

ひとみだ....きっと....

あの頃僕らよく二人で神戸の街を見下ろしていた。初めてここへ来た夜、僕はひとみを後ろから抱き締め、その額にそっとキスをした。僕の腕の中でひとみが溶けていくのがはっきりとわかった...
ここにいた。君がいた。その息遣いを感じることは出来ないけれど。微かに君の音がした。

僕は目の前の柵に寄りかかり、神戸の港を見下ろした。

君はどこに...

山を降りると、行き場所を決めていないことに気が付いた。
ひとみと歩いた街、ひとみと見上げた空。
ひとみを感じた街、ひとみを追いかけた空。

僕は急速に遠のいていくその頃に支配された頭を振り払い、車を阪神高速へと向けた。
国道43号線を右折し、芦屋から大阪に向かう。

ひらめく記憶。

予感には二種類ある。前進する予感を辿り、車は東に向かって一直線に走っていく。

ハービスの駐車場に停め、僕は地下街を梅田方面に向かって歩いた。
君を探す道。行き交う人が陽炎のように過ぎていく。
泉の広場から地上に出た僕は、そのまま扇町公園に向かう。

今日、君に緑の木々の下で「同じように」そして「それから」の予感の下で語らう映像を胸に秘めて。

扇町公園にも、ずっと足を伸ばした大阪城公園にも君の香りは立っていなかった。それでも「今日」という日に君を見つける「宿命」を信じずにはいられなかった。

陽が傾きだした午後、ツインタワーの下で遅いランチを取る。あの頃、この店で君と語り合ったのはオアシスのコンサートがはけた後だった。同じ席に座り、二人分のオーダーをし、大部分を残し、ビールだけを飲み続けた。

大阪府庁の前に出て、天満橋の駅に出る。松坂屋のHMVでレコードを買い求める。

*ビル・エヴァンスのヴィレッジ・ヴァンガードのコンプリート
*スクリッティ・ポリティの「キューピッド&サイケ」
*キリンジの「エイリアンズ」
*ルーシー・パールの「ルーシー・パール」
*ジェームス11の「オール・メン・ロング・フォー・ブラック」

空っぽに近かったポーターのバックパックに重さが加わる。

北浜通りを淀屋橋に向かって歩く。証券会社の群れ、薬品会社の群れ。君と歩き、ランチに通った店が視界に揺れている。

淀屋橋の交差点は通勤客でごったがえしていた。週末の夕暮れ時、僕は君を探して、未来だけを見ていた。

御堂筋を南へ下るか、梅田方面へ戻るか?それは過去と向き合う作業に似ていた。
明日を夢見るなら南へ行く。
ぼくは北へ向かった。でもそれは未来をあきらめたのではなく、君との思い出の場所を唐突に思い出したからだった。

石造りの橋をゆっくりとキタヘ向かって歩く。日銀を越え、信号を渡ると、その距離は半分になった。
明日へ架ける橋を一歩一歩進める。

初めに気が付いたのは後になって考えるとひとみの方だったかもしれない。
でも僕はその人の群れの中に佇み、川に向かって西の空に落ちていく夕日に照らされた横顔を見つけた。

立ち止まった僕にぶつかったサラリーマンが不満の声を上げるのを記憶の片隅で聞いた。

君の横顔、君の長い髪が黄金色に輝く。
僕は息を止め、永遠のメロディを聴いた。

僕は歩き出した。一歩一歩。君に向かって。未来に向かって。

橋の中ほどにある出っ張りの真ん中で君は美しい後姿を作っていた。変わらないのに、僕の知らない生き物のように。

声を掛けることすら出来ず、それでも勇気が足を前に出す意思を脳内に送っていた。

低い石段を登る。

振り返る君の横顔を正面から感じながら、それでも僕はひとみの横に立ち、同じように西の空を眺めた。

「変わんないね」
「君はちょっと変わったよ」
「ちょっと?どこが?」
「大人に見えすぎて躊躇したよ」
「そう?」
「いつからここにいたの?」
「いつからかな?忘れた」
「よくここ覚えてたね」
「あなたこそ」

「遅くなってごめんね」
「ううん、いいのよ」
「うん、ありがとう」
「ん?何が?」
「いや、ここにいてくれて」
「あなたが来るって気がしたわけじゃないんだけど」
「...」
「まあいいじゃない、会えたんだし」

拍子ぬけするほど、君はあの頃と笑い声で僕をじっと見ていた。変わること、忘れることへの恐怖心がじんわりと消えていった。

「どっか行こうか?」

「どこに?」

「君の行きたいところでいいよ」

「そう、でもあなたは?」

「えっ?」

「これからどうするつもり?」

「....そういえば考えてなかったな」

「そんなわけないじゃない?あなたが」

「とにかく君に会うことだけ考えてたから」

「そう...」

「とにかくどっかで座らないか?」

「....ねえこんな時、みんなどうするのかな?」

「みんな?」

「そう、やっぱり抱き合ったりするのかな?」

「んんん、そうだなぁ」

「手、出して」

?

僕が出した左手をひとみが両手で抱えるように握る。

「あなた相変わらずきれいな手してるね」

「ひとみ...」

僕の胸にひとみの額が触れる。僕はあごをひとみの頭に乗せたまま、ひとみの温度が僕に乗り移る瞬間を感じていた。その髪はあの頃と同じ「水分ヘアパック」の香りがした。

ひとみはそっと頭を起こし、僕の瞳を柔らかい光を放ちながら包みこんだ。

僕は顔を右に傾けひとみに... その唇がその場所に届く刹那、不意に伸びたひとみの手が僕の顎を撫でた。

「ひげ昔より濃くなった?」

「えっ?」

「だって髭伸ばしたいのにぜんぜん揃わないって言ってたじゃん」

「そうだったっけ」

「少し大人になったのね」

ひとみが僕の腕の中からそっと抜け出す。僕は軽い眩暈に似た混乱の中で立ち尽くした。

「ねぇ、私今日ウェスティンなんだけど来る?」

「えっ?」

「ルームサービスでも取ってゆっくり話しよ、だって3年ぶりなんだよ...」

「そうだ ね...」
部屋に入ると、ひとみはパスタとサラダ、それにシャンペインをオーダーした。そしてゆったりとソファに腰を下ろした。
僕は部屋の中央で立ち尽くしたままポケットのマルボロを取り出す。
「タバコ、又吸い出したんだ」
「うん」
「どうして?」
「なんとなくね」
「イライラしてるの?」
「そうじゃないけど」
「フフフ」

ゆっくりと立ち上る紫煙の中で僕は君の匂いを感じていた。
20分で届いたオーダー、窓際に設置された小さなダイニング。大阪の街を見下ろしながら、僕は言葉を選ぶ作業を続けていた。

「僕の好み覚えてたんだ」
「う~ん、それもあるけど、これもなんとなく」
「そうなんだ」
「オレンジジュースの方が良かったかしら」
「いいや、いいよこれで」

立ち上る泡のシンフォニーに僕は小さなシンパシーを感じ、正面からひとみを見つめた。
美しい鼻梁、聡明な額、耳にかけた艶やかな髪。

「さて、あなたの話を聞こうかしら」
「うん...」
「なんでそんな悲しい顔してるの?せっかくこうして会えたのに」
「なんでかな?自分でもよくわかんないよ」
「私は、ずいぶん待ったからさ、今はなんか安心した...」
「ごめんな、いろいろと」
「いろいろと?」
「あの場所に行けなかったこととか」
「ほんとひどい話よね」
「ごめん」
「もういいよ、それは」
「今、どこに住んでるんだ?」
「聞きたい?」
「うん、これからさ、又一緒に暮らせるかな?」
「あなたはそうしたいの?」
「そのために来たんだから」
「どうしたらいいかな?これから」

ひとみはダイニングチェアを離れ、ベッドに浅く腰掛けた。
僕は膝をついてひとみの前に頭を垂れた。

「一緒にいないか?これからずっと」
「そうしたい?」

ひとみはベッドの上に背中を降ろす。
僕はひとみを両足に挟み、その美しい顔との距離を縮める。

「ひとみ...」
「あの人とはどうするの?」
「?」
「あの人にもどう言ってるの?」
「?」
「私、けっこうあなたのこと知ってるのよ」

僕は唇をひとみの首筋に這わせた。
「ねえ、どうなの?」
「それは終わったよ」
「終わった?」
「そう...」
「あなたって変わらないのね」
「?!」
「ねえ、私にも彼が出来たって言ったらどうする?」
「え?」
「その彼と来年の7月に結婚するって言ったらどうする?」
「?」
「驚いた?」
「嘘だろ?」
「嘘じゃないって言ったら?」
「.......」

ひとみが僕の腕の中から抜け出す。僕の中のひとみがするりと零れ落ちた。

「あなた、それでも私と暮らしたい?」
「.....」
「いつまでも若くないのよ、私たち」
「嘘だろ?」
「何が?」
「だって、あの時、君はあそこにいたじゃない」
「あの時って?」
「あの約束の場所に」
「あなた....もしかして来てたの?」
「......」
「なんで嘘ついたの?何の意味があるの?」
「.....」
「会いに来てたの?」
「君も気づいてたんじゃないのか?」
「何が?」
「僕があそこに車を止めてたこと」
「もしそうだったとしたらどうなの?」
「?」
「あんなところで一人霧みたいな雨に打たれてた私は何なの?」
「悪かった」
「悪かったじゃないわよ.....信じられない...」

気まずさは故意に作られるものじゃない。それが出来たら上級者だ。
僕は瞳のなかのひとみをまっすぐに見た。ひとみは立ち上げ利窓のそばに座り込んだ。

「な、結婚するって嘘だろ?」
「......」
「俺になんて言って欲しいんだ。おめでとうとでも...」
「ありがとう...」
「ありがとう?」
「あなたにはいい勉強させて頂きました」
「.....なんだよ...」
「私、明日一番で帰ります。東京に...」
「.....」
「あなたはどうする?ここに泊まるなんていわないでしょ?」
「.......」
「何?空中庭園にでも行く?」
「何を見るんだ?何のために...」
「あなたと過ごした大阪の街をもう一度だけ見とこうと思って。もう来ないかもしれないし...」
「帰るなよ」
「何言ってるのよ。行かないなら帰って。帰って下さい。」
「......」
「これでいい?」

ひとみは僕の顔を両手で挟みこんだ。その唇が僕を湿らせ、その胸の圧力が僕の鎖骨の下辺りをゆっくりと強く押した。

この世で一番甘美な瞬間は、この世の終わりを告げるベルの向こうに揺れながら存在していた。
薄れていく歴史の残像の中で、僕はニューヨーク、JFKでのもうひとつのキスを思い出していた。
ひとみはボッテガ・ヴェネタの編みこみのバッグを肩に掛け、僕の方に向き直った。

「いこ」

僕の目の前をドアに向かって歩く。

「あれキーどこやったっけ?」
「ひとみ」

目の前の大きな瞳を僕は見据える。
抱きしめたい、この細い肢体を。抱きしめてそのままベッドの中で朝まで、いやこのままずっとここで、暮らして行きたい。この部屋の中で生きていきたい。

「あったそこかぁ~」

ひとみはライティングデスクの上に手を伸ばす。

「なぁ、こんなんでいいのか?」
「...いいのよ。これで...こうなる運命だったのよ」
「....」
「だから最後に空の下でさよなら言いましょ...」
「.....」
「そんなかわいい顔しないの、いくよ」

僕は彼女に従った。永遠の従属だったらまだよかったのだけれど。

大阪の街は気がつかないうちに随分様相を変えていた。クリアに見えるのは空気の乾燥のせいなのか。

二人は黙ったまま点滅するライトやうごめく車の列を眺めた。言葉を発することで何か壊れてしまうことを恐れ、僕は臆病な小動物のように、ただ目の前の現実と、ひとみの滑らかな横顔を見つめ続けた。

「あなたは変わらないのかな?」
「...」
「よくわかんないな。でも昔はもっと自信に満ち溢れていた」
「.....」
「何にも言わないの?」
「.....」

「待ってて、私お手洗い行ってくるね」
「.....」

遠ざかるひとみの肩が少し小さく見える。小さくなるその立体。僕は気を取り直して目の前の光景に目を移す。

気がつけば随分時間が過ぎていた。ブレゲの針はもう20分は過ぎていた。僕は、緩やかな予感を感じ、その場を離れ、階下に下りた。
ひとみの姿を追い求める。どこにも彼女はいなかった。僕は目の前のレストルームの前でなおも15分待った。
しびれを切らした僕は、レディースルームから出てきた初老の老婦人に声を掛けた。

「あの、失礼ですが、ちょっと人を探していまして....というか彼女がトイレに行って帰ってこないんです。中で、あの~グレーの長袖のニットを着た20代後半の女性って見かけませんでしたか?」
「トイレの中でですか?」
「は、はい」
「ちょっと見てきますわ」
「すいません、申し訳ない...」

親切な老婦人は、申し訳なさそうな顔で出てくるなりこう言った。
「ちょっといらっしゃらないみたいね。どの個室も今は開いてるみたいですし...」
「そうですか、どうもご親切にありがとうございます」

僕の予感は黒く変わっていった。
ホテルの部屋をチャイムしてみる。
応答なし。
携帯電話は「電源が入っていないか........」
僕はエレベーター前の館内電話でフロントに問い合わせる。

「少々お待ちくださいませ........お客様申し訳ありません、先ほどチェックアウトされたようですが....何か...」
「ありがとう」

逃げた?それとも僕が逃げたのか?
どうやってロビーまで降りたのか覚えていない。それでも僕はタクシーを拾うと大阪駅に向かっていた。

大阪駅の北口に着く手前で、僕は行き先を新大阪駅に変更した。
「お客さん、今日は金曜日やから混んでるけどいいかな?」
「......」
「あ、はい」

新大阪駅に着くと、僕は上り方面のホームに急ぐ。「のぞみ」?「ひかり」?

僕は一瞬の躊躇のあと、「のぞみ」のホームへ急いだ。
時は先を急ぎ 景色も流れていくけれど
僕の前の風は じっとしたまま 揺れるだけ。

その夜、僕がひとみと会うことはなかった。僕は本当にひとみを失った。そう見失ったのだ。

新幹線ホームで僕は最終列車を見送った後、呆然とホームに立ち尽くした。

その後、どうやって家に帰ったのか覚えていない。

それからの数週間を抜け殻のように過ごした。十二月になった。クリスマスソングが街に溢れ出しても、僕の焦燥感は一向に去らなかった。

山崎からの電話をダムの側で取った時、本当に僕はすべてを捨て去る決心をしていた。そう、僕自身も含めての過去と現在を。


春が来た。僕は一切の仕事のオファーを断り、家と近くの公園を往復する毎日を過ごしていた。そうひとみとの思い出に溢れた小さな小さな児童遊園と...

僕は眠れぬ夜に、部屋に掛けたひとみのポートレートをベッドサイドにおいて飽きることなく眺め続けた。

ひとみ

この世で一番大切なもの。 この世で唯一のたいせつな人。

桜が散り始めた。そして五月が来た。
公園からの帰り道、久しぶりに覗いたポストにクレインの封書に入った招待状を見つけた。溢れんばかりの郵送物の一番下にそれはあった。消印は「三月七日」。

ひとみからだった。
そしてその横には僕の知らない男の名前...

九月だと聞いていた。それを五月に早めた理由がわからなかった。
その場で開いた案内状には「五月三日。ウェスティンホテル東京。午後三時開式」

明日.....

僕は自分自身に一瞬の躊躇もなかったことに驚いた。

僕はひとみの人生最高の場所に立つ。僕自身の人生最悪の場所に...

翌朝起きることなく、つまり眠れぬまま僕は重い体にゼニアのブラックスーツを纏った。ネクタイを忘れたことに気づいたのは京都駅を過ぎたあたりだった。

浜松を過ぎたあたりで降り出した雨は、勢いを増していった。
沼津を過ぎたあたりで新幹線は徐行を始める。それでも僕は不思議な落ち着きを保っていた。

東京駅に着いた時にはもう二時を大きく過ぎていた。大混雑の丸の内口を出て、タクシーを拾う。地下鉄の方が早いのはわかっていたけれど、後部座席に座り込んだと同時に深い眠りに落ちた。

ゴールデンウィークの都心は、丸の内を抜け外堀通りを外れると混雑していた。

午後二時四十三分。僕は外苑から表参道に抜けたところで車を降りた。一分間に百メートルしか走らない車を捨てて。

僕は......走りだした。君に会うために。愛する人に会うために必死に走ること。そこに何の意味と感情があるのかわからないけれど、僕は人生最悪の時に向かって最後の失踪を始めた。

幸せそうなカップル、親子連れ。僕はもう二度と来ることのない東京を駆け抜けた。キャットストリートを抜け、渋谷駅を通過したところで、馬鹿馬鹿しさに笑い出しそうになった。
「一体、誰にこの姿を見せたいのか?それを一体だれが認めてくれるのか?」

恵比寿の駅に着いた時には三時半を過ぎ頃だった。
長いムーヴィングウォークに凭れ掛かる。

乾き始めた汗が素肌に着たジル・サンダーのシャツを不細工に接着させていた。

ウェスティン東京の回転ドアを抜けた時には、もう時計の針は四時に近づいていた。

地下のバンケットルームを探しにエスカレーターを降りようとした時だった。

美砂子?

目の前に立っていた沢山のゲストに囲まれた二人が僕を見ていた。
あの男、ヤンも僕をじっと見ていた。

どういうことだ?

僕と彼らの間に縮まることのない微妙な距離があった。

次の瞬間、立ち尽くした僕の鼻腔に懐かしい香りが忍び込んだ。

「来たのね」

振り向いた僕をまっすぐに見据える大きな瞳。

「ひとみ.....どうして...」
「美砂子さんにおめでとうって言ってあげたら」
「えっ?」
「ほら、私より先に、彼女に言ってあげて...」

僕は、ひとみに引っ張られもういちど振り向かされた。
そして気がついた。美砂子が抱き上げた小さな男の子に...
その顔に見覚えがあった。鼻筋、眉毛、あごのライン...

ヤンだ....

僕の子じゃぁ.....

美砂子は僕に微笑んでいた。そしてうなずいた....
その横のヤンも微笑んでいた。若干の不敵さも含んだ笑顔で...

「ひとみ....」
「あなたも私も今日はゲストよ」
「でも、どういう...」
「いいのよ、今日はお祝いの場所だし、そんな悲しい顔しないの」
「...」

結局、ヤンと美砂子に声を掛けることは出来なかった。
大勢の招待客と一緒に階下に下りていく二人を無言で見送る。

ロビーには大勢の生命と運命が行き交っていた。
僕はその中で、ひとみと二人見つめあった。

「遅かったじゃない、もう式終わったよ」
「美砂子の式だったのか?」
「そうよ...」
「でも、何故?」
「ねぇ、私達ってどう見えるかな?」
「えっ?」
「ううん、いいの」
「...」
「ねぇ、私にもう一回優しくしてくれる?」
「え?」
「あなたが良かったらでいいんだけど....それとも怒ってる?」
「怒ってる?って」
「美砂子さんと、私どっちがキレイかな?」
「ひとみ...」
「私、今度はあなたをハッピーにしてあげる」
「...」
「あなたさえ良かったらだけど...」

僕はその瞬間、僕自身を、いや歴史と生活をすべて捨てることを決めた。未来はひとりで作っていくもんじゃない。
愛するもののために生きていくこと。30歳を越えても、40になっても、60になっても...。

ボクハヒトミヲアイシツヅケル

僕はひとみの細いやわらかい体を胸に収めた。その髪に触れた顎が心地よくくすぐったい。ひとみの大きな瞳は僕を見上げた時、心臓が急停止しそうな感覚に僕はその場で浮遊しそうになる。

アイスルコトハイキルコト
シガフタリヲワカツマデ

その口づけは僕にとっての初めての愛のメロディを奏でるものだった。ゆっくりと、甘く、そして.....甘く...

アイハコイヨリトウトイ

ずっとずっとずっと....

長いキスを終えた二人は、初めての祝福を受ける前に、過去との決別と、赤いハートのかけらを得るために、バンケットルームのドアをあけた。

暗転したドアの向こうは、丁度、高砂に二人が並び立った瞬間だった。

僕らは、テーブルに向かって手を取り合って進んだ。今日はゲストに過ぎないけれど、その足取りはいつか僕と彼女が祝福と永遠の友愛を得る道を進む一歩一歩だった。


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